豪人窯誕生秘話

「何で野村さんは、陶芸家になろうと思ったのですか?」

 

「何で丹波焼の産地で独立をしたのですか?」

 

「小さい頃からもの作りが得意だったんですか?」

 

などいろんな質問を受けます。

 

そんな問いに答えましょう! 

 

 

さぁ~いつの時代の武勇伝から話しましょうか?

 

少年時代の輝かしい過去から別れを決めた大学時代、そして苦しんだ修業時代から独立までの波瀾万丈の行き方?私が陶芸家になるまでをぜひ、お読み下さい。

 

 

継続は力なり。

気がつけばサッカー小僧だった。

テレビゲームで遊んだり、漫画を読んだりした記憶がない。。。

サッカーボールさえあれば時間のつぶせる子供だった気がする。

中学時代は7時からの朝練を3年間続けた。学校までは一時間かかる通学であったが苦ではなかった。そして神戸市の選抜選手にも選ばれ、海外遠征の経験もさせてもらった。究極のバカだったが、スポーツが出来たおかげで人気者だったし、お巡りさんにお世話になるような反抗期を過ごすことなくすんだ。

 

高校は兵庫県ではトップクラスの選手が集まる滝川第二高等学校に進んだ。

県内の中学校のキャプテン達が集まればレベルはものすごく高いが、まとまらないチームで孤軍奮闘した。上下関係の縦社会も味わったし、挫折もしたし、青春の汗を仲間達と流した。

大学もサッカーのスポーツ推薦で入れた。勉強して受験してきた教育学部の中ではものすごく浮いた存在であったが最高の仲間に出会えた。(本当にナイスガイな奴らに)

サッカーも楽しかったけど、仲間といる時間が楽しくてたまらなかった。

誰かの下宿先に集まり、何するわけでもなく同じ空間と同じ時間を楽しんだ。

(サッカーしか知らなかったし硬派だったから、女子の存在を覚えたのもこの頃かな?)

 

そして人生のターニングポイントとなる成人式の日をむかえる。

1993年1月15日 大学2回生だった。

成人式は京都の知恩院で大学合同成人式が行われた。4つか5つの大学の合同成人式には800人~1000人もの若者が集まり、二十歳の抱負を叫んだ。

そんなイベントの壇上にいち早く上げられ、二十歳の抱負と野望を5分も語ってしまった。

(近くに坂本龍馬が眠っているのだが、私の中に乗り移ったかのように。。。)

遊び疲れて帰路についたものの、何故か興奮していた。

まだ私の中に龍馬が居座っている気がした。

「このまま私はどのような大人になるのだろう」

「どのように生きて行きたいのだろう」

と朝まで悩んだ。考えた。想像した。(紋付袴姿に一升瓶片手のおバカな成人式のノリではなかった。)

そして手に職をつけて生きたいと決意した。

迷いはなかった。でもサッカー選手になりたいという夢と最高の仲間との別れだけが私の後ろ髪を引っ張った。

 

が!!自分は自分の道を突き進んだ。(泣いた。)

 

成人式から3日後、両親に事情を説明して思いを告げた。

父には反対された。「お前は学業から逃げたいだけだ!」と言われた。

何も反論できなかったし、今思えばそうだっただけかもしれない。。。

でも母は納得してくれた。手に職をつけるなら早い方がいいと理解を示してくれた。

 

そして大学を中退した。

高校時代の監督にも謝りに行った。

(スポーツ推薦で進学した者が部活を辞めると、今後その大学に推薦入学が難しくなるらしい。)

 

 

後はジェット機に乗ったような勢いで物事が進んだ。

何人かの陶芸家の先生や工芸作家さんを紹介してもらった。

(ガラスでも木工でも和紙でも絵画でもよかった。)

私の指が太くて短い農家の人ような手をしていることから陶芸を勧められた。

そして小川哲男先生の作品に心を打たれ、弟子入り志願をした。

一度は断られたが、通い弟子ならと2週間後に弟子となった。

半年間は、土練りと薪割の作業だけだった。それ以外は師匠のよこで先生の技を見た。

何時間も会話することなく横手立ったまま、目で技を盗んだ。

 

一年が過ぎようとしていた頃、疲れていた。病んでいた。

「辞めて逃げたい」と毎日泣いた。

でも格好良く旅立ちを決め、温かく見送られて来た以上泣いて帰る勇気もなかった。

そんな維持が2年過ぎ、3年4年と過ぎて行き、陶芸が好きになっていった。

 

小川哲男氏に2年間師事した後、有田窯業大学校で2年間基礎を学んだ。

佐賀県立有田窯業大学校は、佐賀県が職人育成のために建てた施設なのだが全国から

焼き物屋を目指す若者達が集まった。

 

同世代のライバル達とプロフェッショナルな講師達から一から美術を。。。陶芸を。。。芸術を学んだ。

 

窯業大学を卒業する際に、職人で企業に就職する道と作家を志す道に選択できたが迷わず、新たな弟子入り先を探して陶芸作家の夢を選んだ。

 

全国各地にたくさんの陶芸家がいて、産地があって、私の中にも好きな作家さんがいて、好きな作品があった中から地元兵庫県の丹波焼 「末晴窯」西端正氏に弟子入りを志願した。

 

先生のお手伝いはもちろん、仕事は窯元商品として食器を作ることを命じられた。

朝からロクロに向かい、200個300個と器を作った。

怒られながら、時には師匠に牙を剥いてしまう事も。。。でも5年間師匠の元で技を磨き、技を盗んだ。

 

いつの日からかあんな形、こんな色で自分の作品が作りたいと思うようになっていた。

 

よく世間でも言われるように「一人前になるのに10年はかかる」

気がつけば修行も9年の歳月が過ぎようとしていた。

「継続は力なり」とはよく言った言葉だ!維持で続けた陶芸も月日と共に好きになり、力になり私の人生になったのだ。

 

 

独立を意識するようになり、修行しながらあちらこちらの土地を探した。

生まれ育った兵庫県で近郊に近い田舎から田舎の山奥まで、夢描いた雰囲気の風景を探して回った。

煙を上げれる条件や上下水道などの条件などを考慮したり、いろんな方に相談にのってもらいながら候補を絞っていった。そんなこんなしている最中、、修行先にほど近い所で山林分譲の土地が出た。

なかなかの景色だし、山の緑と太陽の光、風の流れが思い描いていた景色に近い。煙もモクモク上げれる条件だし、焼き物好きなお客さんが向こうから観光しに来てくれる産地の中だなんて。

 

 

一生に一度の大きな買い物を決めた。

 

 

800年の歴史のある丹波焼の産地に。。。

60軒のも焼き物屋が軒を連ねる中に。。。

閉鎖的な田舎町へ。。。

ライバルが睨みをきかす中へ。。。

飛び込む不安などなかった。ただ自分のアトリエを構え、自分の物が作れる喜びで溢れていた。

 

そして2002年独立、篠山市今田町に豪人窯を築窯した。

 

独立を果たして、はや10年!陶芸で生計を立てる難しさは半端ない。

修業時代の苦労なんて足元にも及ばない。

でも、楽しい。

 

苦しい中で輝く光に向かって。。。。

一度しかない人生を。。。。

自分で選んだ人生を。。。。

 

ガムシャラになんて言わない。ゆっくりでも一歩づつ前に歩いて行こうと思います。

 

 

皆様方の暖かいお力と後押しに助けて頂きながら。。。

 

 

長々と過去からの自己伝を綴りましたが、これを機に陶芸を志す若者に!

独立したいと思っている弟子達の力になれば幸いだと思います。

 

自分の力を信じて下さい。

 

「継続は力なり」